舞台少女の「死」とループについて 再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」考察

※再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」のネタバレを含みます。

 

スタァライトほんと面白いですね。。。ロロロを見て二年前のアニメ放送当時の気持ちを思い出しました。分かります。

また私は、時間ループ設定が好きだったこともあり、当時7話の内容に大きな衝撃を受けたことは今でもはっきりと覚えています。

しかし、本作におけるループ設定は、あくまで大場ななの一個性という認識で(むしろこういう描かれ方が斬新だった)、サブテーマですらないし、スタァライトをループモノSFという観点で見ることはなかったです。しかし、本作(及び来年公開の劇場新作)はそのループがキーとなり、物語が展開されているようです。そのため、スタァライトの世界観を理解するために、ループについて一度まじめに考えたいと思いました。

そんなこんなで、アニオタでありSFオタである私の血が騒いだので、ループ設定に関していろいろ整理していると、ちょっとおもしろい考察を思いつきました。それが、この記事のタイトルにもある「舞台少女の死」とループについてです。

 

 

まず、よくあるループモノ作品では、ある問題を解決するためや、不都合な未来を改変するために同じ時間軸が繰り返され、その過程で主人公が葛藤し成長する過程が描かれます。その場合、ループを脱出すること自体が目的になったり、結果としてループを脱出してハッピーエンドを迎えます。

一方で、スタァライトの場合は系統が異なります。なぜなら、大場なながループしていた理由は、第99回聖翔祭の劇中劇「スタァライト」の眩しさを忘れられなかったからです。つまり、ただ同じ時間を、ひたすら繰り返したかったからです。そのため、その「スタァライト」を演じるまでの一年間をひたすら繰り返すこと自体を目的として、自ら望んでループを選択し、そこから脱出しようとはしていません。このような考え方は、いわゆる永劫回帰に近い思想であり、ループすること自体が目的になっているため、当然このループに終わりはありません。

しかし、思わぬ飛び入りの少女によって、そのループにもついに終わりがもたらされました。そして、「スタァライト」の悲劇の結末は改変され、99期生の物語はキラめきに満ちた新章へと突入します。同時に、大場ななも彼女のことを思う仲間の言葉に励まされ、次の舞台に進むことを決意します。ここまでは、アニメスタァライトのあらすじです。作中で伝えられるメッセージをストレートに解釈しています。

 

さて、ここからが本題です

実は、彼女が第99回聖翔祭のスタァライト」にそこまで固執する理由ははっきりとは描かれてはいません。中学生時代のトラウマを乗り越えて初めて浴びた喝采は、彼女にとって忘れがたい記憶であることは確かですが、それは「スタァライト」でなくても経験し得たことです。もっと言えば、彼女自身スタァライトなんて悲劇は大嫌い」と本音をぶっちゃけています。つまり、彼女にとって本当に忘れられないのは、「スタァライト」を演じるまでの仲間との尊い日々であり、第99回聖翔祭の「スタァライト」自体ではありません。この点は、彼女がループを繰り返す中で、スタァライト」の結末を大きく変えようとしなかったことからも分かります。

では、彼女はなぜ同じ時間をループすることを選んだのでしょうか?別に、2,3年生になった後でも同じような経験はできるはずです。なぜなら彼女の周りには、その1年間を一緒に過ごした仲間が、同じようにいるからです。そう考えると、彼女がループという選択をした背景には、彼女をそうさせた大きな要因が他にあるように思えます。

 

ここで、時間ループの特徴から、大場ななが望んだループに対して、もう一つの意義を見出すことができます。それは、「舞台少女に永遠の命を与える」ということです。人が生きることのできる時間は当然有限であり、人は皆老いて死に、過去の存在となります。しかし、ループという時間の円環の中では、人は年を取ることもなく永遠に生き続けることができるのです。これは、輪廻転生に近い考え方です。もしくは、日常系アニメ特有の「サザエさん時空」もその一種であると考えることができるかもしれません。すなわち、舞台少女たちが死の恐怖から解放され、永遠に生き、舞台を演じ続けることができる世界、彼女はそんな世界を望んだのです。

以上を言い換えると、彼女がループを選んだ理由は、「舞台少女の死」を恐れていたからとも言えます。

この時、彼女の純粋すぎる子供のような心は無意識にも、死という根源的な恐怖を感じ取っていたのかもしれません。そして、ループという時間の円環に彼女たちを閉じ込めることによって、死から彼女たちを守ろうとしました。なぜなら彼女は、天性のやさしさ(自己犠牲)をもつ少女だからです。その気質は、神楽ひかりという無関係な転校生さえも、哀れみの心をもって、自らの世界に取り込み、助けようとしたことからも分かります。結果として、大場ななは「舞台少女に永遠の命を与える」ことに成功します。

 

さて、ここで述べた「舞台少女の死」とは、どちらかというと物理的、生物学的な観点から見た、人の死です。いわゆる比喩的な、精神的な意味での死のことではありません。ひかりは、作中で「死せる舞台少女」と言われています。それは、彼女がイギリスでのレヴューに敗れ、キラめきを失ったからです。すなわち、精神的な「舞台少女の死」とは、キラめき(=情熱=血)を失い、舞台に立てなくなってしまうことを言います。

この精神的な「舞台少女の死」を神楽ひかりは、幼い日に親友と交わした約束をばねに、克服します。そして、キラめきの再生産により、再び舞台少女としての自分を取り戻します

つまり何が言いたいかというと、舞台少女たちが生み出すキラめきがあれば、「舞台少女の死」など恐れるものではなかったということが、結果として明らかとなっています。すなわち、大場ななは、ループによる再演で物理的に死を克服しようと試みましたが、実際はそんなことしなくても、彼女たちは舞台に立ち続けることができるということが示されています。このように、「舞台少女の死」は舞台少女たちの情熱によって克服することができるという点は、アニメ内でストレートに描かれており、この作品の一つのメッセージでもあると思います。

 

しかし、それで終わらないのがこのスタァライトという作品の恐ろしいところです。実は、彼女たちのキラめきをもってしても、「舞台少女の死」を回避できないケースがたった一つだけあることに気づきます。それは、「舞台の死」が実現してしまった時です。

「舞台少女は舞台に生かされている」。これはこの作品の根幹となる言葉です。

どんなに厳しいレッスンを積んでも、どんなに素晴らしい歌声を響かせても、どんなに素晴らしい演技をしても、そこに舞台が無ければ、舞台装置は動きませんし観客の歓声は起こりえません

では、舞台が死ぬというのは実際にどういうときでしょうか?その答えは、「舞台(作品)の作者の意図が忘れ去られたとき」、です。総じて、作者の伝えたいことが受け手に伝わらないとき、芸術作品は意味を為さなくなります。つまり、99期生にとっては、スタァライト」という作品の本来の意図が忘れ去られたときに、その舞台は死んでしまいます

 

ここで、一つキーとなるのは、スタァライト」は作者不詳という点です。つまり、作者の意図は、その作品内にしか残されていません。「スタァライト」には、星を摘みに塔を目指したフローラとクレール、塔に幽閉されていた女神たちが登場します。そして、星に輝きに目を焼かれたフローラは塔から落ち、残されたクレールは塔に幽閉されてしまいます。この物語は、ここで終わっていますが、実はスタァライト」自身も輪廻転生をもとにしたループ作品になっており、アニメ本編と類似的に描かれています。すなわち、塔に幽閉されたクレールは、星を摘もうとした罪を償い、次の女神となって、新たにやってくるフローラとクレール(の転生者)を待ち受けます。そして、同じ悲劇が繰り返され、新たな女神が誕生します。この流れが繰り返され、物語は永遠と続いていきます。ゆえに、この物語は、「ずっと昔の、遥か未来のお話」だったのでした。またこれは、いわば新たな女神たちのキラめきを燃料として、物語が続いていくことを意味しています。まさに、神楽ひかりが彼女の運命の舞台でやったように。

 

さて、そうだとすると、この作品の作者の意図が見えてきます。それはすなわち、ずっと昔から遥か未来まで、この悲劇を繰り返すことです。この趣味の悪い作者は、少女が幽閉されない脚本には怒っていたかもしれません。なぜなら、罪を犯した少女を女神として幽閉し、情熱に満ちた少女のキラめきを燃料にすることで、この作品は終わり、すなわち「死」を回避することができるからです。また、作者不詳で伝わったこの悲劇は、ループ構造を作品内に巧みに取り込み、長年にわたって多くの読者の心をつかみました。まさに、ループを利用して「作品に永遠の命を与える」ことこそが、作者がこの作品に込めた意図だったのです。もしかすると、大場ななの行動も、無意識にこの物語から影響を受けた結果だったのかもしれません。

 

ここまでくると、次に言いたいことがわかると思います。なんと、第100回聖翔祭の「スタァライト」では、この結末は改変されてしまいます!フローラはもう一度塔に登り、幽閉されていたクレールと女神たちを、贖罪のループから解放します。そして、星を摘みに来る新たな罪人も、それを迎える女神もいなくなり、ループは終わりを迎えます。それは、輪廻転生を繰り返し、遥か未来につながれるはずの魂が、永遠の執着から解放されたことを意味しています。ゆえに、この物語に新たな燃料はくべられず、永遠にループさせて作品を続けるという作者の意図は除かれることになります。結果として、スタァライト」という「舞台の死」が実現してしまいました。

まとめると、ハッピーエンドだと思われた第100回聖翔祭の「スタァライト」は、結果的に物語の終焉となり、99期生の舞台少女たちにとっての「舞台の死」が引き起こされてしまいました。偶然にも、大場ななのループは、「舞台少女の死」だけではなく「舞台の死」からも仲間を守っていたことになっています。つまりスタァライト」は、ループした世界がさらにループに取り込まれる構造により、強固に「死」から守られていたことになります。

 

では、最後に、この「舞台の死」をもたらした根本の原因は何でしょうか?大場ななという舞台少女と「スタァライト」という舞台によって作られた、二つの強固な時間のループを壊した人物がいます。しかも、おのれの「スタァライト」への執着と、わずか5歳で運命を交換した一人の少女との約束のためという、無邪気で傲慢な理由でです。さらに彼女は、舞台の結末を書き換えて、二人だけの新章を生み出しました。それは、作者の意図を超えて、舞台に新たな生が与えられたことを意味します。果たしてその物語の結末の続きは?主演は?死んだはずの舞台少女たちの運命は?私はそれが見たいのです。

 

 

ねぇ――聖翔音楽学園三年生、愛城華恋さん?

 

 

 

 

以下、考察のまとめです。

 

舞台少女たちは、大場ななと「スタァライト」の二重のループによって死から守られていた。

飛び入りの舞台少女が、結末を変え、「舞台の死」と「舞台少女の死」が訪れた。

同時に少女は、新たな舞台「新章」を始めた。

愛城「また私、何かやっちゃいました?」

大場・神楽「駄目だこいつ…早くなんとかしないと…」

 

ということで、劇場新作を、お楽しみに!!!

 

 

 

 

以上、妄想終わり。

 

 

 

余談:

ワイドスクリーンバロックを理解したい方におススメのSF作品をご紹介します。もともと定義が曖昧な言葉ですが、何となく分かります(多分)。

・スズダルの元ネタとなる話がある、短編小説集「スキャナーに生きがいはない 人類補完機構全短篇/コードウェイナー・スミス

・今一番来てるSF、「三体/劉 慈欣」「三体Ⅱ 黒暗森林 上・下/劉 慈欣」

・とにかく、わけわかんない。「Self-Reference ENGINE/円城 塔]」

・時間モノSF短編集「ここがウィネトカなら、きみはジュディ 時間SF傑作選」

まさに、時間と空間を手玉に取った、超壮大でぶっ飛んだスケールを”体感”できます。

 

SF沼楽しいですよ~^_^